よくある話

 私は極めて自己中心的な考えの持ち主で、他人を人と思っていない節もあります。最悪独我論に陥ったりもしてみたり。他人のことについては冷めた見方しかできないですしねぇ。ブログというのはしょうもないある種病的な自分語りをするのにぴったりなわけで、今日も画面に向かってしまっています。


 もともと他人の言う事はあまり聞き入れない方でしたが、大学に入ってからは自分の中にこもって考えることが増えたような気がします。嫌われないように人の目なんかも気にする方だったのに、どうでもいいなぁというかしょうがないよな思うようになって。昔とは異なって、自分はこうだと盲信していたものを、実はそうではないのではと、ゼロベースとでも言いましょうか、今まで積み上がってきたものを打ち崩して、振り出しに戻るようになりました。そこから見えてきたものも多いですが、その分自分の考えがガタガタにぐらついてフラフラによろめきました。以前と異なって頼る自分もない。
 だけど自分の中だけで全てをどうにかするのは限界があるんですよね。当たり前ですが。まぁ無理だとわかっていても、語り得ないものを語りたいと思うように、そうしたいと思うこともあることはあるのですが。そのくせ自分でしようにも中途半端なままで抜け出せなくて。そもそも、あそこに行ったのも自分でどうこうするためではなく、周りから何かを学び得たいという思いがあったはずなんですよね。人任せではあり普段のスタンスとは矛盾していたのですが。まぁ薄々実感を伴っていたのでしょう。それが、自分の卑小さに完膚なきまでに打ちのめされ、自分が自分でなんとかしなければいけないともがくようになり、空回りしていった。もうこんな歳なんだしだったり、今までの自分の遅れを幾度となく感じ焦っていたことも関係あるかもしれません。これは今でも拭いきれてはいなくて、これからどうにでもなるとはいえ棒に振ったという思いは脳裏に焼きついて離れません。コンプレックスのようにこびりついている。生きていれば誰かには迷惑をかけてしまうし、情けなくもなる。つまるところ自意識の中に閉じ籠ることで自分の傲慢さ、驕りを放置し、見ないようにしていたんですね。意識はしてないでしょうがふと気づかせてくれた人たちには感謝しています。当人は多分これを見てはいないでしょうしだからこそこう書けたりもできるわけで。普通に見られたらこっ恥ずかしいですね(苦笑)私には友人と呼べる人はごく僅かしかおりませんが、だからこそそういう方たちとの出会いを大切にしたいなぁと改めて。

 今の自分は、躍起になって自分に拘っているようで。自分の危うさに辛抱が利かなくなってきたとともに人も捨てたもんじゃないよという思いも少しは生まれつつあるなぁと。自分の思想、考えの弱さというものも、年季を入れて耐えていくことで強くしていくことも考えますが、どうなんでしょう。まだ確信を得ているわけでもないですし。同じところに立ち続けるのはなかなか困難です。何かに気づく時に、それが頭から消えない保証は、少なくとも自分の場合にはなくて、何回も同じ道を通っているかもしれません。しかしその度に深く跡を残せたら私は満足です。

 
 今なぜ死ねないか。この場において。このまま。やはり、未練たらたらで執着しまくりなんですよ、この世に。死ぬ程絶望してないし、この年にしては珍しく真剣に死のうとしたこともない。自分の一生に意味が見いだせないのと同じように、この場で命を絶つ意味もまるで見出だせない。楽になるか?本当に?得体の知れない世界に足を踏み入れる勇気がない、と思えるぐらいにまだ期待してはいるのでしょう。最近の自分は自分でも目も当てられない程ですが、それでも、です。

 人生なかなかうまくできているようで、やっと自分にとっての難題をくぐり抜けたかと思って少し安心していたらまた別の難題が生まれるもんなんですね。一難去ってまた一難とはよく言ったものです。そう言えば、「カンタンにいかないから生きてゆける」なんて言ってた人がどこかにいた気がしますが、どうなんでしょうねぇ。